副題の「首夏」は、旧暦の四月、初夏を意味し、五月五日まで開かれていた「馬市」を題材にしています。八朔御馬進献の儀に同行していたとすると、広重はこの馬市を目にすることはできなかったはずです。 有名な話ですが、画面中央の「談合松」の右にある通称黒い「鯨山」は、後摺では削られています。その理由を、広重が実景にない山を消したという説もありますが、ここは、諧謔趣向の作品の意図を考えると、ある人に曰く、「馬市」に寄せて、馬より大きい、そして「池鯉鮒」に掛けて、鯉よりも、鮒よりも大きな鯨のような山を描いたのに、その意図が誤解されたからというのはいかがでしょうか。ちなみに、「池鯉鮒」という地名は、知立(ちりゅう)神社の池の主の、鯉と鮒からきているそうです。北斎の「池鯉鮒」を描く作品には、池の鯉や鮒を掴む童子が描かれた作品があります。
国貞は、多くの場合、広重の描法の誤りを正し、また後摺を引用しますが、ここでは、鯨山の描かれた初摺を背景に使用しています。理由は二つ考えられ、一つは、広重の諧謔を国貞が理解し、それを尊重したこと、あるいは、もう一つは、国貞がいよいよ広重作品の版行に追いついてきて、初摺から程なく推敲せず使用したからとも考えられます。美人は、馬市に合わせて、熊手を持ち、馬草を入れる竹籠を背負う姿です。国貞は、鯨ではなく、熊で競ってきたのでしょか…。 ちなみに、『東海道名所図会』では、池鯉鮒の馬市以外に、八橋の杜若(かきつばた)古蹟を紹介していますが、それを参照したであろう北斎『諸国名橋奇覧』の「三河の 八つはしの古図」には鯨山の原形のような山が描かれています。広重の鯨山は、意外にも北斎の影響かもしれません。また、鯨山削除の理由は、八橋の景色との混同を避ける趣旨があったとも推測されます。--- 続きを読む
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